目をつぶると、私の前にひろがるのは戦前の東京だ。市電が走っている。伝染にポールがふれてスパークし、ぱちぱちと青白い火花が散っている。また目をつぶる。すると今度は戦後の東京だ。見わたす限り焼け野原で、銀座から浅草の松屋が見える。浮浪児とパンパンが街を行く。また目をつぶる。すると今度は現在の東京だ。まぼろしのように高層ビルが立っている。
Read More母屋の座敷で寝ていて、早朝、だれかが縁側で包丁を研いでいる、と思った。欅の枝葉の繁りを梳いて、庭へきびしい晩夏の光が射し込んでいる朝だった。とても近い音なのに、見渡してもだれもいない。音のするほうへ下駄をつっかけて出ると、すぐそばの梅の木の、根方にそよぐ草叢から発していた。
目を凝らして草のあいだを覗いてみたら、前肢にミンミンゼミをがっしりと捕らえたまま、翅を収めきっていないオオカマキリがふり返った。
鹿の肉を喰っていた。持て余した肉の大きさに、ナイフとフォークをじわじわと動かして、金属の先端が皿にあたる細く澄んだ音へ、耳を澄ますようにしていた。音と音との間が、時雨の走って過ぎる間ほどの、長さに感じられた。人の話に受け答えをするには、時雨の中と同様に、何のさしさわりもない。声はかえって通った。
Read More風はいよいよ吹き荒れ、雨もそれにあおられて舞うせいか、まっすぐ落ちてこないで、ざっ、ざっ、ざっ、と如雨露で水をまいたように塊となって窓を打ちつける。木々の梢に切り裂かれた風の音が彼の耳のなかでかすれたひとの声に変化する。命の芯、とその声は告げているようだった。おまえに、命の芯を受け止める力があるのか、と。
Read More透谷について書きだしてから、なぜかわたしは心という言葉をしばし使うようになってきた。「心宮内の秘宮」の「心宮」のもつ影像の魅力であろうか、心という言葉を使うたびに、「こころ」ではなく真珠のようにひかる「心宮」を想いうかべる。透谷を読む以前といまとでは、心とう言葉の姿がまったく変わってきているのに気づく。
Read More僕の発想法は基本的にはやっぱり断片的。それで、その断片をどう並べるか。ヌーヴェル・ヴァーグのモンタージュは、断片断片の素材で撮っていって、編集でつくるわけだけど、あれに近いと思う。モンタージュする時に、既成の起承転結的な音楽パターンにすることも出来るし、きれいに並べないで、わりと素材のままダラッと放置することも出来るし。
Read More眼鏡を額にずりあげ、服も顔も煤で真っ黒になった機関士と運転手が、釜焚きデッキの手すりに肘をついて、縁の赤くなった目で、目の下の男女のぼんやりとしたうごめきが横に滑ってゆくのを眺めていたが、ながい軋み音をたてて列車のつらなりが動かなくなると、それも動かなくなり、どの顔も彼らを見上げ、時に子供を腕に抱いたりして、列車が停止してだいぶたってからも、いつもの突進とちがって、一種の疑いぶかい茫然自失、疑いぶかい狼狽といった表情で、客車の茶色っぽい脇腹を凝視しつづけていた。
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