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machidatetsuya

ー 反文明ということがあるでしょう。でも、反文明だけじゃ、やっぱりこれから救われないと思うのね。文明に反抗するとか文明を否定するぐらいじゃ救われない、もう文化も否定するところまで行かないと、救われないんじゃないかと。そんな気がしてきたの。反文明を超えて反文化。そうすると、何もしちゃだめなんですよ。なるべく何もしないほうがいいんです。人間、じっとしていなきゃと思うのね。
 何もしないように、なるべく生きていたいと思うんだけどね、現実はそうはいきませんね。だけど、気持ちのうえでは、なるべく何もしたくない。何もしないことに、自分がどれぐらい耐えられるかということね。いつも、どうしたら耐えられるだろう、どうしたら耐えられるだろう、どうして耐えていきたい、こうして耐えていきたいと、そのことばっかり考えているの。生活 / 大衆論 / 富岡多恵子 西部邁 対談 (1984) より抜粋引用 ー

 コンセプチュアルな意味深長や臆病な可能性の示唆という導入ではなく、素材そのものの世界を体感的に拡張する手付きで4年に渡って風船を使ったインスタレーションを行ってきたごとうなみは、2014年初頭雪の中2ヶ月前のインスタレーションで破裂させた素材の残骸を荼毘に付し火葬した。作家自身が「昇華」という言葉を選び、素材世界(もっとも作家自身が拡張させたものだが)の最期を徹底的に見届ける行為でもあり、加えて容赦なくこの「火葬」を作品化する制作として、燃え残った風船は銅版画プレス機の圧力で「形骸」として写し取られた。
 作家がオリジナルの世界観をパッケージ化させた反復的ルーチンワークにこそ藝術が萌芽するということがある。その場合の藝術にはルーチンであったからこそという論理の裏側に予期せず根付く苔に似た余剰的なものがある。それは特異な系譜で成立するしかない固有な作家性によって繁茂する。日々への反動があり不安があり迎合があり決別があり、つまり多様性を多感に享楽的に享受する自らの生の器自体を成熟させる反復(ルーチン)への斥力が作家足らしめるわけであり、その矛盾した結節点においてようやく、紆余曲折の現実感を恢復させ、あるいは暗がりに隠れる辿りの路を儚くとも照らし出す自己投射を気概として増幅させ、たったひとつの肉体で細く繋げるように燃焼させるしかないとも言える。故にこうした闇に楔を打つような仕事においては作品性よりも人間の特性が藝術としてむしろ「特性のないあるがままの人間」の姿となって突出し露呈する。

ー <ナニカをつくる>ことを、とりあえず、<進化>とは無関係なものなんだと納得してしまえば、単に行為性(外面性)や思考性(内面性)だけで、表示意欲が満足させられ、かつもてあました余力で、ものがつくれる場合、実際に、”作品”とよぶにふさわしい実体物をたち現すには、もっとたくさんの要素、たとえば素材などがあり、そんな中で、わたしにとって、現在、より必要なのは、空間そのものへのこれまでにない視点への欲求である。だからといって、空間とそれに付随した事柄へのあらたな解釈と認識は、そんなにかんたんにはいかない。なぜなら、従来、空間やその認識は、ヒトのわけへだてなく、だれにでも等価等質に与えられているとみるべきでなので、その先入観を打破するのは、むずかしいと思われるからだ。事物を媒介させて、そのもののカタチを変えることで、空間のおきかえを見せるのは、容易にできるけれど、わたしが考えているのは、そういった意味と少しちがうものである。現在すでにある仕組みだけを変えて見せるというふうにはいかない。わたしがなんとなく感じているのは、たとえば、一枚の四角いベニヤの板があるとすると、その四角いカタチと思わせる原因になっている思考性、そして具体的な空間性はなんなのかということである。四角いカタチのベニヤ板がそこにあるから、<四角い>のではなく、ましてベニヤ板だから<四角い>カタチにリアリティーがあるのでもないだろう。菅木志雄展「空囲支間」インスタレーション的存在・レリーフ作品 / 1992年 双ギャラリー展覧会カタログより抜粋 ー

 明晰明快に目に見えるゲシュタルトを操ることは、無論言葉で操ることとは違った「飛躍」を世界に与えながら得ることでもあり、手法的には計画や論理の果ての臨界にて立ち尽くしたあるがままの肉体を恣意を越えた彼方へ投げ出すしかない。殊更に意識せずとも美術家は彼方へと橋渡されたゲシュタルトからドーパミンの噴出を促され知覚を拡張し再起動するものだ。我々全てが特異で固有な作家から示されたゲシュタルトを等価に同調できるわけではないにしても、同調を想定した「もてなし」のゲシュタルトの欺瞞的な装飾性の惨たらしさ浅ましさより、表出の挙げ句が躓きであっても達成であってもそれを問うものではないごとうなみの感応の楔は自身の率直な状態そのものであるから、逆に受け容れる側の状態を問われるという転覆的対峙を求められるようなことになるかもしれない。そうした傾向がコンセプチュアルな教唆的ニュアンスを含むとしても、作家の「これから」という筋には、更なる跳躍的な広がりが「先見」的に約束されていることは、「昇華」の曲折を経ながら併行して行われている平面が示しはじめている。

ー 不思議な道を ”あなた” はつくった
そこに、夏芙蓉が、道端に、咲いているのか、どうか・・・・・
だが、”甘い(「息をとめられるような・・・」)香り (the sweet stifling fragrance-リービ・英雄さん訳)” は
確かに、していた
「冷たそうな川じゃね」”と”、”秋幸(あきゆき)” も、また・・・・・
あきゆきもまた天上の言葉であったことを知る
荷坂(ニサカ)峠をこえると “おおよ” ー ”あなた” の海の坂、土地となり
なんとはなしに、ハンドルを左右に振られて、眠くなってきていた
わたしくたちの
死は、わたくしたちの
死を、見詰める他者の
瞳(ひとみ)の、深い、瞳(メ)の色の底(そこ)ニ、
ふかまり、ひろがる・・・・・
吉増剛造「青春と群像」98.10月号 文藝別冊 永久保存版 中上健次「路地はどこにでもある」より抜粋引用 ー

  生きている実感そのものが作家であるとする制作の日々は、時に平安な柔らかさに包まれ、時に残酷で無慈悲な目つきが宿り、時に預言的巫(かんなぎ)の憑依の虜となり、時にやはり美術家としてだけのぽつねんとした存在に回帰するのだろう。その時々が連なったメビウスの環が時間軸に逆らうように因(動機)と変容(展開)を交錯させて孕み続けて「ごとうなみ」という唯物的存在であると示すのは、彼女の作品と制作の日々そのものでしかない。ここで我々はもともと人間がそうであるように、作品も彼女自体も、他のなにものとも似ていないと気づく。

ー「霧の世界で樹は解体する」樹を取り囲んでいる霧の中で、葉は樹から剥離される。ゆっくりと進行してくる酸化に追われ、また、花や果実のために樹液を使い果たし活力をなくした葉は、八月の酷い暑さ以来すでに樹にいっそう執着しなくなっているのだ。樹皮の中には垂直な溝が掘られ、それを通って、幹の生きている部分とは無関係に、水分が地面まで導かれる。花は散り、果実がおとされる。極く若い頃から、彼らの性急な気質や彼らの肉体の部分々々が示す忍従は、樹々にとっては習慣的な鍛錬となっているのだ。物の味方 / フランシス・ポンジュ / 阿部弘一訳 ー



2014 ごとうなみ作品集「Installation Works 風船」寄稿テキスト

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旻の長くつややかな髪が、セロリの茎みたいな土の体をかする。彼をじらし、誘う。土はカリフラワーのような大きな頭を、旻の豊かな乳房に押しつける。乳を欲しがる腹をすかせた醜い子豚だ。三三が想像をたくましくすればするほど、二人はおかしな図になった。こんなふうに想像するのは不公平だとわかってはいる。土は滑稽な姿で、旻の美しさはダイヤモンドのように傷つかない。
Love in the Marketplace / Yiyun Li

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「記憶は過去ではないといったら可笑しいだろうか?記憶は現在の意識であるから」
「じゃあ過去を示すソレは、何?」
「ドリンクみたいな・・・」
「飲まないとわかんないってこと?」
「あの時は、もう取り返しのつかないことだが、過去を眺めると新しい記憶がうまれるんだよ」
「あたし過去なんか棄てちゃったけど」
「どこかで誰かが拾っているかもね」

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窓を通して部屋の中に見知らぬ女が見えた。
何気ない一瞥が歩みに上手く乗って流れた小さな眺めだったが、部屋の奥の扉の向こうにあるキチンに、陽光の射し込む流しの前に立つ、視線を手元に落としたままの、微動だに動かぬ後ろ姿は、柔らかい動きに包まれて静止していた。
動かずにいるのに動くとは不思議なものだと、その時は思った。
角を曲がって、よく知った店先の鮮明な花々の色彩が眩しすぎるなと、強い香りを色と取り違えてから振り返り、先ほどの女に仕合せな家族が寄り添っていようと、愛らしい子供にかまけていようと構わない。恋をはじめなければいけない女の肩へ向けて重怠い歩みを返した。

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一階へ下り着く前に階段がまるごと陥落してしまう気がした。そして、百段近い階段を十段くらいしか踏まなかったような錯覚を覚え、一階のテラスへ下りてからも、踏み残された階段が気になった。
流れない川 / 石原悟

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たしかに疑いないのは、漱石が「愛」について書いたことだ。つまり、互いに他を裸にしてしまう出口のない世界を書いたことである。いいかえれば、「恋愛」というものには、北村透谷がみぬいていたように、極度の観念的(宗教的)転倒がひそんでいるのであって、それをまともに追求すれば漱石のようにならざるをえない。「恋愛」は自然でも何でもないのだ。大衆文学が描いてきたのは、「恋」でも「愛」でもなくて、自然化した恋愛観念にすぎない。「恋」を書くためには、むしろ「近代文学」を転倒するような意志を必要とする。年をとるとなくなってくるのは、まずそのような意志ではないのか。
ー異言としての文学/反文学論/柄谷行人

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一紀という宇治で開業している医者が、山を越え坂の上の闇をくぐって、伊勢の油屋という妓楼にやってくる。一度きた敵娼(あいかた)がよそによばれ、一時間ほど待たされた彼は、ひきあげようとする。べつに腹を立てたわけではない。仲居から預けた刀を受けとったとき、彼はその刀をふと抜いてみる。ところが、そこから惨劇がはじまるのだ。油屋を出て、彼は逃げもせず元の山道をひきかえす。
「ーひとりで酒を飲んだ。帰りがけにあの仲居から刀を受けとった。その刀を抜いたら仲居の指が斬れた。それから人殺しの声の中で人を殺していた。「人殺し」の声があがり、その声の中に入っていって人を殺していた。そこまでしか一紀にはわからない。あの長い急な坂を登っていった時、不思議に濃い闇のかたまりの中へつっこんでいくような気がしていたのを一紀は思いかえしたー」
法について/反文学論/柄谷行人

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