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一紀という

一紀という宇治で開業している医者が、山を越え坂の上の闇をくぐって、伊勢の油屋という妓楼にやってくる。一度きた敵娼(あいかた)がよそによばれ、一時間ほど待たされた彼は、ひきあげようとする。べつに腹を立てたわけではない。仲居から預けた刀を受けとったとき、彼はその刀をふと抜いてみる。ところが、そこから惨劇がはじまるのだ。油屋を出て、彼は逃げもせず元の山道をひきかえす。
「ーひとりで酒を飲んだ。帰りがけにあの仲居から刀を受けとった。その刀を抜いたら仲居の指が斬れた。それから人殺しの声の中で人を殺していた。「人殺し」の声があがり、その声の中に入っていって人を殺していた。そこまでしか一紀にはわからない。あの長い急な坂を登っていった時、不思議に濃い闇のかたまりの中へつっこんでいくような気がしていたのを一紀は思いかえしたー」
法について/反文学論/柄谷行人


一紀という