膝を折り腰を屈めて手を荒いつつ水場の脇に置かれてあった、まだ農作業の名残りのある黒土がこびりついた鍬に目をやると、肩口からふいに、
「あれで獣もやるし、人もやる。そういうものよ」
と嗄れた女の声が聴こえた。
オープンカフェのテーブルに座り、所在なくぼんやりと路行く人を眺めていた。
こちらは椅子の中の影のようだったのだろうか、同じテーブルに女が誰もいない席に座るように、ため息まじりに腰を下ろし、バッグを横の椅子に置いてから、
「あら、こちらいいかしら」
と、はじめて人に気づいたような台詞を投げて寄越した。
頷いてから、女の口から面倒な言葉が続いたら立ち上がろうとこの時決めたが、細い煙草を燻らせこちらに横顔を向けたまま、睫毛を下ろし人々の歩行のはじまる路の入り口あたりを、遠く眺めるので、あたりは更に停止したように消音し静まっていった。
微かな頭痛が残ったまま、必要ないだろうと手荷物を宿にあずけ、多少濡れても構わない。ゆっくりと歩き、一時間程過ぎていた。
ふいに密度の濃くなった驟雨を避けて軒先に体を寄せハンカチで肩を拭うと、街道を挟んだ向こう側に、暗がりに灯るような白い皮膚をこちらと同じように拭うワンピース姿の女が見えた。
一度視線を会わせてから、見てはいけないモノをみてしまったような羞恥が眉間を横切った。間を走り抜けるバスの窓に顎と視線を投げ逃れ、ポケットの煙草を探り、残りが少ない凹んだ箱を掴み、一本を銜え火をつけ、左肩脇にあった自動販売機に小銭を入れ、普段は吸わない銘柄を選んでいた。
「あのねえ、聞いてよ。このイヤホーンから諸行無常っていう声が聞こえてきたの。ロックバンドの演奏にまじって。」
「ほう。」
「男だか女だか分からないけれど、ものすごくきれいな声だったよ。人間ばなれした声だった。」
「ばかなこといをいうんじゃない。そら耳だろう。」
(音をたてると実験の邪魔よ) そういうことをぼくは辿っている。
(何も考えないで、しずかにやってごらん。そうだ。頭の中をからっぽにして)
(・・・それでいい)
(パパ、まわっている)
(そこだ。そのまま・・・・)(まわっている・・・)
ミラグロスという天使。語りべであり潤滑するオイル。
(南へ・・・)
観念で自身を縛り、脅迫し、攻めていって、そういった月並みな追い込み方に草臥れた。
車を走らせ、巨大な岩がごろごろ転がる空間を眺めにでかけた。あまりの巨大さの故、流れに逆らい上流へ反発するように登ると云う岩の力は、こちらを突き抜けて上昇し、上空に舞い上がったと思ったら、その空間を見上げるように見下ろしていた。
生活をたてる。暮らしを行う。某に寄り添って細く長く続くのだ。これが自分の生だと、切迫しながら呆然としている妙な感覚に、しかし慣れるとはおかしなものだ。殊更に生きるということが、生であるとは限らない。
歩きながら上を眺めると、此処は様々な表情を豊かに持つ空と雲があった。視線の端にある低い建造物も、いつかなくなるような儚さがある。丘に登って見渡すと、なるほど、湖の底にあるような街だ。